ボルヘスの「バベルの図書館」は、アルファベットのすべての組み合わせを蔵書としてもっている。 各本は410ページ、各ページは40行、各行は80字で構成され、「広大な図書館に同じ本は2冊ない」。 平野氏は「小説としては完璧かと思われる『バベルの図書館』にも、一握りの曖昧さが残されている」という。
『バベルの図書館』を読んで誰もが疑問に思うのは、この有限と思える図書館が無限であると書かれていることである。 これはどういうことであろうか? 平野氏は1冊に収まりきらない本に注目する。 『失なわれた時を求めて』は1冊に収まらないため、分冊になるが、このとき、続編となり得る本は無数にあるため、全体としての本の数は指数関数的に増えてしまう。 これがボルヘスが残した「一握りの曖昧さ」であり、「無限」といいう観念と交わるのはこの時だという。
しかし、この「無限」はもっと単純に考えられないだろうか。 もしすべてのアルファベットの組み合わせが本として存在するとしたら、ボルヘスが書いているように、特定の本を探し出すことは限りなく不可能に近い。 また、江島健太郎「平野啓一郎『バベルのコンピューター』に見る新たなアポリア」で述べられているように、本を一意に指し示すタイトル(=ID)を付けることもできない(本文と同じ長さが必要になってしまう)。 この図書館は役に立つだろうか? 自分がなにか本を書こうと思ったとき、その本はすでに書かれているだろう。 しかし、それを見つけることができないのであれば、新たに書くことを選ぶだろう。 すべてを網羅することは、なにもないことと同じとなる。 バベルの塔は神によって破壊されたが、バベルの図書館は人間によって破壊されるだろう。 そして本は新たに書かれ始め、本が増えるごとに、すべてを書き尽くすという欲望が芽生え、再び図書館ができるだろう。 図書館はそれ自体に破壊と再生の可能性を内在しているのである。 「図書館は無限であり、周期的である」というボルヘスの言葉はこのように理解することもできるだろう。
Posted by yatsu at August 22, 2004 10:44 PM