「コンテキストに対する無自覚」について
Posted by yatsu Thu, 11 Dec 2003 04:22:49 GMT
なんかアクセスが多いなぁ、と思ったら、圏外からのひとこと—コンテキストを巡るコンテキストから参照されていたのでした。
僕は『「不自由」論』の第3章は読まなくていいと書いたのですが、essaさんはむしろ、第3章が重要だと書かれています。コンピュータの「コンテキスト」が出てくるところがessaさんらしく、楽しく読みました。 (でも、反論ぽいことを書いてしまいます(笑))
僕は仲正さんと同じく「ゆとり」論者のいう「ゆとり」や「主体性」が曖昧だということは、そのとおりだと思うのですが、それを「コンテキスト」で批判することには少し違和感を覚えます。
「コンテキスト」をウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」のように考えれば、対話において両者の従う規則が「コンテキスト」ということになります。 「ゆとり」論の議論をしている人たちのコミュニケーションには、このような規則があるから、「ゆとり」がどの程度の「ゆとり」なのかという共通認識があるのです。 だから、僕は「ゆとり」論者が言葉に「無限の可能性を持つようなニュアンス」を含めているわけではないと思うのです。
「ゆとり」論の部外者にとって、その規則=コンテキストが曖昧であったり、不適切に感じられたりするのであれば、その部外者自身がコミュニケーションに参加して、規則=コンテキストを作り出さなければいけないのではないでしょうか。 「ゆとり」ってなんですか? と議論すればいいのではないでしょうか(『「不自由」論』はその契機になれると思います)。 そのような議論に入り込まずに、「コンテキスト」という概念で遠隔射撃することは、逆に「フェアでない」と言われることになりませんか?
