ラストサムライと想像力のこと

Posted by yatsu Thu, 05 Feb 2004 06:25:05 GMT

サムライつながりで、映画『ラストサムライ』についても書いておこう(いまさら)。

この映画はおもしろかった。 史実に沿っていないところがいい。 史実に忠実にやろうとすると、僕たち日本人は、時代劇の先入観を基にしてしまって、これは違う、あれは正しくない、といった見方をしてしまうものだけど、意図的に史実からずらしてあるため、想像力を刺激してくれる。 明治維新の時代に刀と弓で戦うとしたら、ここはこうだろう、とか。 それが楽しいのである。

しかし、逆にこの想像という点から、すこし批判してみたい。
(ここからネタバレ)
映画ではたいてい何か象徴的なものが何度か繰り返し現れるものだが、この映画では中盤で勝元が桜を見て歌を詠み、最後の句が思いつかない、という場面における「桜」と「最後の句」がそれにあたる。 これがあまりにあからさまであるため、勝元は死ぬことになって、そのときに最後の句を思いつくのか、と想像されて、その想像に縛られることになる。 象徴的なものの役割は、次のうちのどちらかであるのが望ましいと思う。

  1. 簡単には解釈できないものを示し、視聴者の想像力と結末の差異を生じさせる
  2. あからさまなものを示し、最後にそれを裏切る

このどちらでもなく、あらかさまなものが示され、それに忠実な結末に導かれると、シラけてしまうのである。 シラけるということは、想像力が停止させられてしまうということである。

だからどうしろ、とは簡単にはいえない。 『ラストサムライ』 では、あれ以外の結末はあり得ないとも思う。 「桜」と「最後の句」を裏切ることはできないから、結末は変えられないだろうが、他の見せ方はあるはずだ。

勝元が敵陣に突進していく時から、スクリーン上部に桜がチラチラと見え出す。 この意図的なアングルの変化から、桜が散る場面がさらに強く想像され、実際、派手に桜が散るのであるが、せめてもう少し控えめに見せるべきだったと思う。 敵陣の後ろでハラハラと散っているだけで充分なのである。 派手に桜に散らせてしまうと、視聴者はそれ以上のものを想像することができなくなってしまう。 中盤で「桜」という象徴が導入されたことで、視聴者は、それを基に想像力を働かせることができる。 激しい戦闘で死んでいくサムライたちを見て、様々な桜の散り方が想像されるはずだ。 その想像力を停止させてはいけない。 映画は視覚に直接イメージを与えることが出来るが、それは必ずしも有利なことばかりではない。 僕はあの派手な桜の散り具合にガッカリしたのだった。

それよりももっと言いたいのは「最後の句」について。 最後の句ができたと言ってはいけないのである。 できたと言ってしまうこと自体、まったく詩的でないのだから。 歌を詠める人間はそんなことは言わないだろう。 ここでは、ただ最後の言葉を残して死ねばいいのである。 そして、その最後の言葉が、意図してか、意図せずにか、歌の最後の句になっているのが望ましい。 それを見たときに視聴者が、あぁ、勝元は最後の句を見つけたんだな、と思えること。 これができていれば、もっといい映画だったと思う。

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