『ドッグヴィル』

Posted by yatsu Mon, 23 Feb 2004 03:57:20 GMT

風邪による発熱が治まってきたので、映画『ドッグヴィル』を観てきました。 昨日、風邪で剣道の稽古を休んだのに、次の日に映画を観るというのは、かなり罪悪感を感じますが、確かに昨日は体調が酷くて今日は元気なのだから、(・ε・)キニシナイ!!

シャンテ・シネで上映されるはずだったのですが、日比谷映画に変更されていました。 日比谷映画は座席が狭くて膝が痛くなります。 以下はネタバレなので注意。

ラース・フォン・トリアー監督は『ダンサー・イン・ザ・ダーク』公開時に、行ったこともないこともない国の映画を作ったと非難されて頭にきたから、もっとアメリカの映画を作ってやろうと思ったのだそうだ。 この時勢でアメリカを外部から見た作品は、たいてい国際社会におけるアメリカ批判になる。 この作品もそのような作品に含まれるのであるが、その批判の強烈さに驚く。 ニコール・キッドマン演じるグレースをどのように裁くかは、ドッグヴィルの村人の集会で民主主義的に決定される。 こうして悪事が民主的に行われるのである。 さらに、グレースを村に受け入れるかを決定するときには、ひとりでも反対したら駄目だという厳しい投票を課しておきながら、後に彼女が嫌疑を掛けられて投票を要求したときには、毎回投票を実施するわけにはいかない、といった身勝手な民主主義ぶりを見せつけている。 この民主主義への悪意すら感じられるようなアメリカ批判には驚かされた。

映画序盤に登場するチェッカーは、完全に多数派優位になってしまった国際秩序の象徴している。 トムはビルのところにチェッカーをやりに行くのだが、勝負する前からトムが勝つことがわかりきっているのだ。 この状況で負けないためには、ゲーム自体を避けるしかない。 チェッカーのゲーム前に、ビルは、駒が足りないからゲームをできないと言う。 負けないためにはこれしかないのである(実際にビルは「圧倒的に」トムに負ける)。

この映画をアメリカ批判と見るなら、トムの態度はまさしく日本的だと言わなければならないだろう。 村人たちにもグレースにも嫌われないように曖昧な態度を続けたあげく、最後に村人たちに迎合してしまうトムに対してトリアーは容赦しなかった。 この映画自体はそういうことを意図してはいないだろうが、日本人にとっては日本の態度への批判と感じるかもしれない。

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