Posted by yatsu Mon, 03 Oct 2005 21:19:00 GMT
『アウステルリッツ』全面改訳の謎|Excite エキサイト ブックス
白水社から《ゼーバルト・コレクション》全6冊が刊行されることになり、第1弾として『 移民たち』が発売されたとのこと。
さらに、6冊目の『アウステルリッツ』は全面改訳されるのだそうだ。
僕はまだ以前の『 アウステルリッツ』を読み終えていないのだが……。
Posted by yatsu Mon, 03 Oct 2005 21:19:00 GMT
『アウステルリッツ』全面改訳の謎|Excite エキサイト ブックス
白水社から《ゼーバルト・コレクション》全6冊が刊行されることになり、第1弾として『 移民たち』が発売されたとのこと。
さらに、6冊目の『アウステルリッツ』は全面改訳されるのだそうだ。
僕はまだ以前の『 アウステルリッツ』を読み終えていないのだが……。
Posted by yatsu Fri, 30 Sep 2005 15:40:00 GMT
PragDave - More Beta Books on the Way によると、『Agile Web Development with Rails』と同じ方式で、以下2冊のベータ版がリリースされるとのこと。
どちらも読みたい。
Posted by yatsu Tue, 27 Sep 2005 15:25:00 GMT
AppleがADC会員向けにADC Bookshelfというサービスを始めた。 これはO’ReillyのSafari BookshelfをADC向けにカスタマイズしたもののようだが、見た目と、ADCのアカウントでログインできること以外 に違いがあるのかはわからなかった。
以下を知りたい。
後でくわしく見てみよう。
Posted by yatsu Tue, 27 Sep 2005 04:45:00 GMT
『レボリューション・イン・ザ・バレー』(amazon)を書店で見つけた。 内容がおもしろいだけでなくオールカラーで美しい本なので、思わずほしくなったが、読む暇がないので保留。
Posted by yatsu Sat, 24 Sep 2005 20:16:00 GMT
「週間読書人」9月30日号の第一面で、カルチュラルスタディーズで有名な上野俊哉氏がガンダムについて熱く語っている。題名は「なぜ今(こそ)、ガンダムか?」。
僕はほとんどガンダムを知らない。
Posted by yatsu Sat, 24 Sep 2005 20:11:00 GMT
『 禁煙ファシズムと戦う』 斎藤貴男、栗原裕一郎、小谷野敦 著
mixiコミュニティ「禁煙ファシズムと戦う」が本になったものらしい。
Posted by yatsu Thu, 22 Sep 2005 23:21:00 GMT
未來社代表取締役による秀丸解説本という記事を以前書いたが、未來社の「未来の窓103」に「テキストエディタ主義宣言」なるものが書かれているのを見つけた。
そんなこともあって、テキストエディタ愛好者の情報交換会のようなものを作れないか、とひそかに考えているところである。じつは『超活用術』の「あとがき」でもそのことに簡単に触れておいたが、かなり本気である。そこで、このページを利用して以下にそのプログラムの骨子を書いておきたい。
一、この会の呼称は「エディタ主義者の会」(仮)とする。
二、会の目的は、テキストエディタにかんする情報交換、紹介、方法論議、研究発表等、エディタの普及と発展のための活動である。
三、参加者は、テキストエディタを使っているか、使おうとするひとであれば、年齢・職種その他はいっさい問われない。
四、入退会は原則的に自由である。
五、会員同士の相互交流と情報交換を積極的に推進するため、定期的な会合をもち、ホームページやメーリングリストの活用をおこなう。
六、相互の交流の成果がある場合には、単行本、小冊子、ホームページ等での公刊、発表なども視野に入れる。
七、会の運営の必要があれば、事務局ないし運営委員会のようなものを設置する(かもしれない)。
八、その他、規約等の必要が出てくれば会員の総意にもとづいて決定する。とりあえず思いついたところを並べてみた。この骨子は整備して近く未來社ホームページに掲載し、会員を募ることにしたいと思うが、いずれにせよ暫定的な措置になるだろう。必要が出てくれば、独自の拠点を設けることもありうるからだ。なにしろいまはまだわたしの思いつきの域を出ないのである。
とはいえ、まずは手はじめに『テキストエディタ主義宣言』(仮)という論集企画を考えてみたい。その意図をテーゼふうに簡単にまとめておくと以下のようになろうか。
一、エディタ主義者は、文書を作成し、そのデータを編集するための最強のツールがエディタであることを認識する。
二、エディタ主義者は、エディタのさらなる処理能力向上と発展可能性のために創意工夫と学習に励む。
三、エディタ主義者は、各自の技術、技法を開示し、相互のエディタにたいする理解、関心、技術の向上に貢献する。こうした観点からのエディタにかんする原稿なら、自分のエディタにたいする思い入れ、さまざまな工夫の開陳など、ほかのひとに参考になりそうなものならなんでも歓迎である。内容的におもしろいものはまずは未來社ホームページに掲載させてもらい、つぎのステップとして単行本化を考えたい。これも近く未來社ホームページで応募原稿の仕様を発表するので、どしどし寄稿してもらいたい。
とのこと(太字筆者)。
未來社で原稿を募るということだが、刊行するのはまた翔泳社なのかな(と、あいかわらず些細なことばかり気になる私)。
Posted by yatsu Wed, 21 Sep 2005 02:12:00 GMT
保坂和志『小説の自由』は小説家が書いた小説論として非常に面白い。 「評論家と小説家はシステムが別」と書いているように、評論家の読み方とは異なる、小説家による読み方を教えてくれる。
どこが面白いかは読み終わってから書くとして、今回は途中まで読んで納得できなかったところを書く。
まず以下の部分。
小説とは書き手と読者との休みないかけひきの産物、——というのはウソで、正しくは、小説とは書き手と文字としての書かれたものとの休みないかけひきの産物なのだ。
(p.132)
小説家がそう思っているとしても、読者は小説家とのかけひきを求めようとするだろう。 特にエンターテイメント小説は、これなしには考えられない。 ハードボイルド小説だったら、マフィアのボスが出てきて「マーロウ、お前はちっぽけなヤツだぜ。顕微鏡がなけりゃ見えやしねえ」みたいなお約束のセリフを吐いてくれなければつまらないし、SF映画だったら緑色の文字がズラズラ流れるお約束映像がなければつまらない。 このような作品では、作者と読者のかけひき(期待に応えたり、裏切ったり)が重要な位置を占めている。 保坂氏はこういう読み方が嫌いだから、ミステリーとか犯罪ものが好きでないのだろう。 また、保坂氏の小説はこういう読み方を否定するものでもある。 男と女が昼下りに家の中で二人だけでいて何も起きない小説を書くのが保坂氏なのだから。 保坂氏の言うように、小説は実際には書き手と読者とのかけひきの産物ではないかもしれない。 それでも読者である僕は、小説を書き手と読者とのかけひきと見るだろうし、その見方がなければつまらないと思う。
と、僕の意見を書いてみたものの、この小説論が扱う小説はおそらく純文学だけだと考えてよさそうだ。 引用されているのはほとんど(すべて?)純文学であり、 「私はミステリーとか犯罪ものにはまったくと言っていいくらい関心がなく」(p.190)とも書かれているから、おそらくそうだと思う。 上記の僕の意見はどちらかというとエンターテイメント的であるから、この本に対する批判としては的外れかもしれない。
もうひとつ、これは単なる疑問なのだが、以下の部分。
文学の中で「運命の女」が繰り返し描かれているのに対して、「運命の男」の方はほとんど描かれていないことが、女性の性行為というか夫婦生活をロマンチックなものでなく、そのままとしてこちら側に理解させるひとつの要因になっていると思う。男の言いなりになりつづける女性を見ると、「(男が特別なわけではなく)原因は女性の方にある」と思うのに、女にふりまわされる男ということになると「運命の女」をつい期待してしまう。
(p.21)
僕から見ると、ヒースクリフ(『嵐が丘』)や浜村龍造(『枯木灘』)は「運命の男」なのだが、間違っているだろうか?
また、「運命の女」ですぐに想い浮かべたのが『或る女』だったが、この小説では男の方にも原因があることがちゃんと書かれているように見えるので、上記はいまいちピンとこなかった。 たぶん僕の読書量か読解力が足りないのだろう。
Posted by yatsu Sat, 17 Sep 2005 05:03:00 GMT
紀伊國屋書店出版部50周年ということで、紀伊國屋書店で「アイ・フィール」の記念号(別冊)が配布されている。今回はタダなので、普段買わない人も読んでみてはいかがだろうか(と書いたところで、PDF版が存在することを知った)。 紀伊國屋の本限定ではあるが、書評が充実していて楽しめた。
独断で書評をいくつかピックアップしてみる。
僕は紀伊國屋書店出版部の本はあまり買ったことがない。 ものすごく僕ごのみの著者が揃っているのに、僕がほしい著作はいつも別の出版社から出るからだ。 たとえばエーリッヒ・フロムの『愛するということ』が紀伊國屋から出ていても、僕が読みたいのは『自由からの逃走』だったり、ハーバーマスの『イデオロギーとしての技術と科学』が紀伊國屋から出ていても、僕が読みたいのは『コミュニケイション的行為の理論』だったりする。ホルクハイマーやボードリヤールも同様。その著者の決定版と言われるような本は、別の出版社から出版される傾向が強い。
そんな僕が紀伊國屋の本を1冊選ぶとすれば、宮崎哲弥氏とかぶってしまうのが悔しいけれど、シオランの『生誕の災厄』(amazon)だ。 『生誕の災厄』は僕にとって危険な魅力をもった本だった。 ひとことで言えば、やばい本だ。 やばいと言われる本はたくさんある。たとえばサドやロートレアモンもやばいことは確かだが、悪というものは生の充実のための手段として合理的に考えられてしまったとたんに、そのやばさは失われてしまう。 それに対して『生誕の災厄』の生そのものへの呪いは、僕にとって恐ろしい破壊力をもっていた。 僕はこの本に、野蛮を批判するために理性までをも批判し尽くしたホルクハイマー=アドルノの『啓蒙の弁証法』に通じるものを感じ取った。 理性そのものが野蛮を引き起こす。 そして生そのものが災厄であるのだ。
そういうわけで、この呪いの本に、僕も呪われてしまったのだ(ドラクエ風に言うと、のろわれているので、はずすことができない)。
ところで、『生誕の災厄』の表紙を見ると、「安部譲二氏絶賛」という帯が付いているが、僕が買ったときはたしか「栗本慎一郎氏絶賛」(かそれに近い言葉)だったと思う。
Posted by yatsu Sat, 17 Sep 2005 04:45:00 GMT
今日「週間新潮」の福田和也氏の時評を読んで知った。 そこに見沢氏の最近までの様子も書かれている。 「群像」の11月号に遺稿が載るとのこと。
見沢知廉公式サイトは更新されていない。 「今、大リニューアル中!!」の言葉が痛々しい。