Posted by yatsu Mon, 13 Sep 2004 04:58:20 GMT
『珈琲時光』公開記念「小津安二郎の戦前・戦後」。
戦前編は『一人息子』以外は見たことがないから、見ておきたい。
Posted by yatsu Mon, 13 Sep 2004 04:58:20 GMT
『珈琲時光』公開記念「小津安二郎の戦前・戦後」。
戦前編は『一人息子』以外は見たことがないから、見ておきたい。
Posted by yatsu Sun, 12 Sep 2004 03:39:25 GMT
吉田喜重監督『ろくでなし』を見てきました。
蓮實重彦氏のお話の他に、吉田監督ご本人、岡田茉莉子さん、映画を見に来ていた青山真治氏のお話まで聞くことができてラッキーでした。
僕から3つ右の席で岡田茉莉子さん、その右の席で吉田監督が鑑賞されていました。
Posted by yatsu Sat, 11 Sep 2004 01:46:48 GMT
明日9月11日から、ポレポレ東中野にて吉田喜重監督全作品の特別上映が開始されます。→ タイムテーブル
明日16:55から上映の『ろくでなし』では、蓮實重彦氏のトークイベントもあります。 僕は絶対に行きますよ。
Posted by yatsu Sun, 22 Aug 2004 01:35:53 GMT
Posted by yatsu Sat, 03 Jul 2004 03:27:12 GMT
『イエスという男』についての続きを書こうと思ったのだけど、『パッション』の話になってしまったので、タイトルを変更。
メル・ギブソン監督『パッション』は苦痛を強いる映画だ。 この映画には、イエスが受けた苦痛はひとつ残さず徹底的に映像化しようという意志が感じられる。 鉤付きの鞭によってイエスの皮膚が剥がれるさま、イエスの手の平に釘を打ち付けたときの血が飛び散るさまは凄まじい。 映画の半分は血まみれの映像だ。 イエスの苦痛を伝えることに関しては、完璧に成功しているし、これ以上のものは作れないだろう。 しかし田川建三氏の著作を読んだ後にこれを見ると、どうしても物足りなさを感じる。 『パッション』のイエスは聖書に基づいた慈愛のイエスで、殺されなければならないほど危険な人物に思えないのである。 むしろ、放っておいても無害な人間に見える。 映像描写が極端にリアルなだけに、こうした人物の描かれかたに現実味がなくて、ちぐはぐな印象を受ける。 もっとも、これは聖書に素直に従うかぎり逃れられないことではあるけれど。
この映画が反ユダヤ的感情を増長させるという批判があるのは当然だと思う(支持するというわけではなく)。 この映画では、ユダヤ教は単純な悪で、まったく理不尽にイエスを磔にしたようにしか見えないというだけでなく、イエスの人物や思想よりも、迫害そのものばかり描かれているように見えてしまうからだ(実際の意図は別として)。 メル・ギブソンは、スクリーンに少しでもスペースがあれば、イエスをいたぶる兵士の醜い笑い顔を入れることを忘れない(ラビたちが笑っていないところに、ユダヤ教への一定の配慮は見られる)。 これを見て「父よ、彼らをお赦しください」と思わなければならないことは、鞭打ちシーンに耐えることよりも苦痛だと思う。
Posted by yatsu Wed, 26 May 2004 04:45:56 GMT
前回から間が空いてしまいました。 このエントリは、うまく書けていないので、後で書き直すと思います。
改めて言っておくと、映画『トロイ』で描かれているのは『イリアス』ではない。 『イリアス』全体をはじめて映画化した試みなどと褒められているようだけど、テーマも筋書きもまったく違うのだから、『イリアス』を基にした、別の物語だと考えるしかない。
では『イリアス』とは、どのような物語なのだろうか。 ホメロスの『イリアス』は10年間に及ぶトロイア戦争末期のうち、たったの10日間だけを描いたものであるから、トロイア戦争の歴史を正確に描写しようという意図はない。 『イリアス』は、ホメロス以後、西洋に根付いた「本質への探求心」によって描かれたものなのだ。
『イリアス』はたった10日間の描写によって、戦争と人間の本質に迫る。 映画『トロイ』(木馬まで出てくる)のように欲張ったりせずに、たったの10日間で足りるのである。 この10日間に、人間と神々が入り乱れて戦うのであるが、ホメロスにおいては、人間の本質はこの神々の姿によって表される。 神々こそが人間の本質を表すものであり、また、人間の理想像である。 そして、ホメロスをはじめ、ギリシア悲劇の作者たちは、この理想像を現実世界で肉体をもつ実在として結晶させずにはいられなかったのだ。 神にも紛う勇者たちが、紛れもない神々の、神にあるまじき行為に操られ、戦う。 これが『イリアス』なのである。 神々の存在なしでギリシアの歴史を語ることはできるだろう。 しかしそれは『イリアス』ではないのだ。
つづく……
Posted by yatsu Mon, 24 May 2004 04:30:25 GMT
映画『トロイ』を見た。 まず断っておくと、これは『イリアス』ではない。 ホメロスの『イリアス』(上・下)を期待してこれを見ると、大いに失望することになる(実際、自分は失望した)。 まだ『イリアス』を読んでいないのだったら、読まずに『トロイ』を見ることを奨める。 それなりに楽しめるだろうから。
映画のシナリオが必ず原作に忠実でなければならないとは思わないけれど、変えるところにはそれなりの理由がなければならないし、原作よりも(映画としては)すぐれていなければならないと思う。 しかし『トロイ』のシナリオは『イリアス』よりすぐれているとは思えないし、明らかに『イリアス』の魅力を損なっていると僕には思われる。
つづく……
以下の書籍について書く予定。
『オデュッセイア』はまだ読んでいない。
Posted by yatsu Tue, 09 Mar 2004 01:38:56 GMT
Posted by yatsu Mon, 23 Feb 2004 03:57:20 GMT
風邪による発熱が治まってきたので、映画『ドッグヴィル』を観てきました。
昨日、風邪で剣道の稽古を休んだのに、次の日に映画を観るというのは、かなり罪悪感を感じますが、確かに昨日は体調が酷くて今日は元気なのだから、
シャンテ・シネで上映されるはずだったのですが、日比谷映画に変更されていました。 日比谷映画は座席が狭くて膝が痛くなります。 以下はネタバレなので注意。
ラース・フォン・トリアー監督は『ダンサー・イン・ザ・ダーク』公開時に、行ったこともないこともない国の映画を作ったと非難されて頭にきたから、もっとアメリカの映画を作ってやろうと思ったのだそうだ。 この時勢でアメリカを外部から見た作品は、たいてい国際社会におけるアメリカ批判になる。 この作品もそのような作品に含まれるのであるが、その批判の強烈さに驚く。 ニコール・キッドマン演じるグレースをどのように裁くかは、ドッグヴィルの村人の集会で民主主義的に決定される。 こうして悪事が民主的に行われるのである。 さらに、グレースを村に受け入れるかを決定するときには、ひとりでも反対したら駄目だという厳しい投票を課しておきながら、後に彼女が嫌疑を掛けられて投票を要求したときには、毎回投票を実施するわけにはいかない、といった身勝手な民主主義ぶりを見せつけている。 この民主主義への悪意すら感じられるようなアメリカ批判には驚かされた。
映画序盤に登場するチェッカーは、完全に多数派優位になってしまった国際秩序の象徴している。 トムはビルのところにチェッカーをやりに行くのだが、勝負する前からトムが勝つことがわかりきっているのだ。 この状況で負けないためには、ゲーム自体を避けるしかない。 チェッカーのゲーム前に、ビルは、駒が足りないからゲームをできないと言う。 負けないためにはこれしかないのである(実際にビルは「圧倒的に」トムに負ける)。
この映画をアメリカ批判と見るなら、トムの態度はまさしく日本的だと言わなければならないだろう。 村人たちにもグレースにも嫌われないように曖昧な態度を続けたあげく、最後に村人たちに迎合してしまうトムに対してトリアーは容赦しなかった。 この映画自体はそういうことを意図してはいないだろうが、日本人にとっては日本の態度への批判と感じるかもしれない。
Posted by yatsu Thu, 05 Feb 2004 06:25:05 GMT
サムライつながりで、映画『ラストサムライ』についても書いておこう(いまさら)。
この映画はおもしろかった。 史実に沿っていないところがいい。 史実に忠実にやろうとすると、僕たち日本人は、時代劇の先入観を基にしてしまって、これは違う、あれは正しくない、といった見方をしてしまうものだけど、意図的に史実からずらしてあるため、想像力を刺激してくれる。 明治維新の時代に刀と弓で戦うとしたら、ここはこうだろう、とか。 それが楽しいのである。
しかし、逆にこの想像という点から、すこし批判してみたい。
(ここからネタバレ)
映画ではたいてい何か象徴的なものが何度か繰り返し現れるものだが、この映画では中盤で勝元が桜を見て歌を詠み、最後の句が思いつかない、という場面における「桜」と「最後の句」がそれにあたる。
これがあまりにあからさまであるため、勝元は死ぬことになって、そのときに最後の句を思いつくのか、と想像されて、その想像に縛られることになる。
象徴的なものの役割は、次のうちのどちらかであるのが望ましいと思う。
このどちらでもなく、あらかさまなものが示され、それに忠実な結末に導かれると、シラけてしまうのである。 シラけるということは、想像力が停止させられてしまうということである。
だからどうしろ、とは簡単にはいえない。 『ラストサムライ』 では、あれ以外の結末はあり得ないとも思う。 「桜」と「最後の句」を裏切ることはできないから、結末は変えられないだろうが、他の見せ方はあるはずだ。
勝元が敵陣に突進していく時から、スクリーン上部に桜がチラチラと見え出す。 この意図的なアングルの変化から、桜が散る場面がさらに強く想像され、実際、派手に桜が散るのであるが、せめてもう少し控えめに見せるべきだったと思う。 敵陣の後ろでハラハラと散っているだけで充分なのである。 派手に桜に散らせてしまうと、視聴者はそれ以上のものを想像することができなくなってしまう。 中盤で「桜」という象徴が導入されたことで、視聴者は、それを基に想像力を働かせることができる。 激しい戦闘で死んでいくサムライたちを見て、様々な桜の散り方が想像されるはずだ。 その想像力を停止させてはいけない。 映画は視覚に直接イメージを与えることが出来るが、それは必ずしも有利なことばかりではない。 僕はあの派手な桜の散り具合にガッカリしたのだった。
それよりももっと言いたいのは「最後の句」について。 最後の句ができたと言ってはいけないのである。 できたと言ってしまうこと自体、まったく詩的でないのだから。 歌を詠める人間はそんなことは言わないだろう。 ここでは、ただ最後の言葉を残して死ねばいいのである。 そして、その最後の言葉が、意図してか、意図せずにか、歌の最後の句になっているのが望ましい。 それを見たときに視聴者が、あぁ、勝元は最後の句を見つけたんだな、と思えること。 これができていれば、もっといい映画だったと思う。