Blogは究極の知的生産の道具

Posted by yatsu Fri, 21 May 2004 23:18:38 GMT

CNET Japan Blog: Blogは究極の知的生産の道具

究極というには少し弱いと感じた。 これだけだとWikiの方がいいような気がする。

僕が欠点だと思うのは、

  1. 並べ替えて、まとめて見ることができない
  2. 公開したくないもの、もしくは公開すると転載(引用でなく)になってしまうものがある
  3. いらないエントリを消しづらい(他の人からのリンクが切れてしまう)
  4. 図を描けない

特に1は致命的。 いろんなものを並べ替えて考えを整理できることは「知的生産の道具」にとって必須だと思う。 それにBlogだと、古いエントリを修正したときに、新しい日付に変更できない(読者が混乱してしまう)。

僕はあいかわらず京大型カードとhowmを併用している。 keisen.elを使えば、Emacsで図を描くこともできる。 これで満足してはいないけれど……。

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特盛はなぜうまいか

Posted by yatsu Thu, 25 Mar 2004 07:56:59 GMT

吉野家の牛丼が食えないとボヤいている私ですが、吉野家の特盛がなぜうまいのか(うまかったのか)を考えてみた。 え? 特盛だけうまいの? という人がいるかもしれないが、うまいのである(断言)。 ではなぜうまいか? その秘密は肉の量にある。

肉の量 ご飯の量 肉の割合
並盛 85g 260g 24%
大盛 110g 320g 26%
特盛 170g 320g 35%

(吉野家の裏話より)

この表で注目すべきなのは、右端の「肉の割合」。 特盛だけ突出しているのがわかるであろう。 特盛は単純に大盛より多いだけだと思っている人がいるようだが、そうではない。 特盛りは大盛と同じご飯の量で、肉が並盛の2倍なのだ! 並盛と大盛の肉の割合が約25%なのに対して、特盛の肉の割合は35%! この10%の違いで、ご飯食ってるという感覚から、肉を食っているという感覚に変わるのである。 つまり、量から質への転化だ。

この肉の割合についてもう少し考えてみよう。

並盛の場合
全体とご飯の比は345 : 260 = 1.32 : 1
ご飯と肉の比は260 : 85 = 3.05 : 1

特盛の場合
全体とご飯の比は490 : 320 = 1.53 : 1
ご飯と肉の比は320 : 170 = 1.88 : 1

驚くべきことに、特盛の肉の割合は黄金比にかなり近いのだ! これこそが特盛のうまさの秘密だったのだ!

(肉の量が多いと書くだけのつもりが、こんなことに……。くだらんことに時間を使ってしまった……。)

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京大型カード

Posted by yatsu Fri, 19 Mar 2004 07:20:37 GMT

久しぶりに感心関心空間に「京大型カード」というキーワードを登録した。

梅棹忠夫『知的生産の技術』で紹介されたアレです。

以下のようなカード批判もあるようだ。
読書猿 第112号

僕はカードをキチンと整理してはいなくて、いわゆる「超」整理法的に管理している。

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二・二六事件・消された真実

Posted by yatsu Mon, 23 Feb 2004 06:57:34 GMT

NHKアーカイブス「二・二六事件・消された真実」を見て、北一輝について調べてみたくなりました。

『評伝 北一輝』松本健一

ところで、さっき『ドッグヴィル』について書いているときに東浩紀氏の「降りる自由」のことを考えていて、hirokiazuma.com/blog: 降りる自由を読み返したのですが、ここでリンクされているMIYADAI.com: 亜細亜主義と北一輝〜21世紀の亜細亜主義で、宮台真司氏が「今や亜細亜主義が見直されるべきであり、北一輝が見直されるべきなのであります。」と書いていることを知りました。

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男らしさ・女らしさ

Posted by yatsu Wed, 18 Feb 2004 00:33:48 GMT

Yahoo!ニュース: 「男らしさ・女らしさ」日本の高校生は意識希薄
(リリカの仮綴じ〆 より)

「女は女らしくすべきだ」という設問は、日本語以外の言語でどういう表現になっているのか気になる。 日本語で「すべき」というと、強い強制のニュアンスがあるけれど、他の国では「〜したほうがいい」くらいのニュアンスかもしれないし、「〜のほうがいい」みたいに(当為でなく)希望のような表現だったりするのではないかと思った。

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東大生に数式を求めること

Posted by yatsu Tue, 03 Feb 2004 16:35:56 GMT

東京大学 靴磨き研究会
(灰色と桃色: 東京大学 靴磨き研究会 より)

【靴磨きの熟練度を表す数式】
d={t-20}+(μABCDEcosθ)-1/2
A:体調(1‐10):B:靴墨の品質(1-10)、C:意気込み(1-10)、D:布の品質(1-10)、
E:所用時間(分)、μ:靴と布の摩擦係数、θ靴表面と手のなす角度
しかし部内でこの数式にはcos派 とSin派の論争が起きています。

先月テレビ出演していた東大襖クラブもそうだけど、東大生、と聞くとすぐに数式みたいなややこしいものが期待され、そんなもんまで数式にするなよ〜という、秀才=バカ像が期待されてしまうわけですが、そんな期待を裏切らない彼らが好きだったりする僕です……。

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北田暁大氏@はてなダイアリー

Posted by yatsu Wed, 14 Jan 2004 03:43:26 GMT

試行空間
(ひとみのモスコミューン本部より)

北田暁大氏がはてなダイアリーに!

……宣伝しちゃまずかったかもしれないけど、ここは人気ページじゃないので、まぁいいかなと。

「週刊読書人」1月16日号の稲葉振一郎さんによる『責任と正義』の書評は、ほとんど大絶賛と言っていい内容。リベラリズムを全面的に否定することができない以上、積極的で明示的な正当化が成されるべきで、それを稲葉氏以上にエレガントかつ徹底的にやったのが『責任と正義』なのだそうです。

本の紹介ばかりして、ぜんぜん読んでない……。

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「コンテキストに対する無自覚」について

Posted by yatsu Thu, 11 Dec 2003 04:22:49 GMT

なんかアクセスが多いなぁ、と思ったら、圏外からのひとこと—コンテキストを巡るコンテキストから参照されていたのでした。

僕は『「不自由」論』第3章は読まなくていいと書いたのですが、essaさんはむしろ、第3章が重要だと書かれています。コンピュータの「コンテキスト」が出てくるところがessaさんらしく、楽しく読みました。 (でも、反論ぽいことを書いてしまいます(笑))

僕は仲正さんと同じく「ゆとり」論者のいう「ゆとり」や「主体性」が曖昧だということは、そのとおりだと思うのですが、それを「コンテキスト」で批判することには少し違和感を覚えます。

「コンテキスト」をウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」のように考えれば、対話において両者の従う規則が「コンテキスト」ということになります。 「ゆとり」論の議論をしている人たちのコミュニケーションには、このような規則があるから、「ゆとり」がどの程度の「ゆとり」なのかという共通認識があるのです。 だから、僕は「ゆとり」論者が言葉に「無限の可能性を持つようなニュアンス」を含めているわけではないと思うのです。

「ゆとり」論の部外者にとって、その規則=コンテキストが曖昧であったり、不適切に感じられたりするのであれば、その部外者自身がコミュニケーションに参加して、規則=コンテキストを作り出さなければいけないのではないでしょうか。 「ゆとり」ってなんですか? と議論すればいいのではないでしょうか(『「不自由」論』はその契機になれると思います)。 そのような議論に入り込まずに、「コンテキスト」という概念で遠隔射撃することは、逆に「フェアでない」と言われることになりませんか?

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「知の不良債権」

Posted by yatsu Sat, 08 Nov 2003 03:13:28 GMT

「知の不良債権──批評閉塞の現状」大杉重男
(KGV ★ PINOBRICK—2003-11-06 より)

批評は価値尺度であるため貨幣と類似する性格をもつ。 そして今日の「批評閉塞」は、マルクスの「貨幣恐慌」に相当する「批評恐慌」であると見て批評しています。 『早稲田文学』2001年1月号に掲載されたものだそうです。

この着想はなるほどと思ったのですが、最期まで読んだら、結局は柄谷、浅田、蓮實、福田、東批判だったのか、という感想……。固有名へのフェティシズムというけれど、この批評自体、日本の批評家の固有名へのフェティシズムを煽ることになってはいないのか? 以下に挙げる2chのスレにあるような「浅田、柄谷、蓮實、東、スガ、渡部がどうしたこうしたってなことを喋っている暇があるなら自分の仕事をしろと言いたい」というようなことは、みんな思っているのではないだろうか。 ただし、柄谷批判、東批判はかなり鋭いところを突いていておもしろいのはたしか。

批評空間界隈のこの手の潰し合いはなかなかすごいものがある。 東浩紀氏が「敵味方を分ける戦術」といってパフォーマティブな批評を嫌うのもよくわかる。 柄谷氏があまりに権力的だからいけないんだろうなぁ。 僕自身にとっては、柄谷行人を固有名へのフェティシズム、守銭奴的に読んでいた部分がかなりあるので、この批評には反省させられもしました。

誰か、以下のスレを救ってください。

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メタ言説のプレイヤー

Posted by yatsu Thu, 06 Nov 2003 02:05:05 GMT

東浩紀さんのhirokiazuma.com@はてな 2003-10-31に対するRirikaさんのコメントがものすごく厳しい。

「現在形の問い」をすることを、「敵味方を分けるための戦術でしかない」「何の役にもたたない議論」だと書かれています。それは、その戦術をしあってる人たちについて、「何の役にもたたない議論」を続けてる人々だといってるわけですよね(だから、そんな議論をするグループから離れた、とも)。すると、「(批評家である)東さんご自身も自己言及的に、敵味方を分ける戦術を用いる『メタ言説のプレイヤー』になっていますね」と誰かが述べたとしても原理的には反論できないのではないでしょうか? 「何の役にもたたない」とする戦術を用いて「何の役にもたたない」ことを書いているメタな文章である、と受け止めればよろしいのでしょうか?

こちらも
リリカの仮綴じ〆—「メタ言説のプレイヤー」ということ。

「メタ言説のプレイヤー」が警戒されたり嫌悪されたりするのは、東さんが指摘するようなコンスタティブ←→パフォーマティブの区別において、それがパフォーマティブであるからというより、どのようにパフォーマティブであるかが問題なのではないか。Ririkaさんのコメントから僕はそのように感じた。

批評家が嫌われる大きな原因は、批評対象に自分自身が含まれないという前提に立って、審問の話法で語ってしまうからだ。 少なくとも僕は、自分自身も関係しないとはいえない問題を、人ごとのように語る批評家が嫌いだ。 敵味方に分けようとすることを批判するときに、自分自身も敵味方に分ける思考をしてしまうこと。 コンスタティブであろうとしても、このような事態を防ぐことはできない。 ここで必要なのは、自己反省や、批判する問題に対して自らの身を投じることであり、それはむしろパフォーマティブに映るものなのかもしれない。 つまり、ただの「メタ言説のプレイヤー」であってはいけないのだと思う (ええ、僕はサルトルに影響されています……)。

僕は、東さんが「べき」論であると批判する現在形の問いにも意味があると思う。 現在を語るときに中立的であろうとすることは難しいが、なんらかの事態に荷担する可能性の責任を引き受けてでも、現在を語るべきではないのか。 そこにあるのは、東さんが感じているような「敵味方を分ける戦略」だけではないと思う。 それに、東さんのオタク批評もこれからのオタク文化に影響を与えるだろうし、「べき」論として認識されるのかもしれない。 それでもその責任を引き受けて、現在のオタクを語ることは重要だろうと思う。

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